グレイヘアという選択――白くなった髪が、私の感性に残したもの

私は今、Mediumヘアのグレイヘアで過ごしています。
正直に言えば、「おば見え」していることは自分でもわかっています。

鏡を見ると、若々しさとは少し違う場所に立っている自分が映っていて、気持ちが揺れる日もあります。

それでも、髪は染めていません。

白髪は隠すもの、染めるのが当たり前。
そういう価値観の中で生きてきましたし、私自身も長い間、疑問を持たずに染めていました。

白髪が出れば染める。
それが「身だしなみ」だと思っていたのです。

ところが、染めるのをやめてみると、思っていた以上に心がざわつきました。


人の目が気になったり、年齢を突きつけられたような気持ちになったり。

「きれいでいること」や「若く見えること」が、いつの間にか自分の価値と結びついていたのだと気づかされました。

今は、先々でヘアドネーションをしたいと思っています。

髪を伸ばす時間も、白髪と付き合う時間も、ただの我慢ではなく、意味のある時間だと思えるようになりました。今では子供たちとヘアケアについて一緒に話したりも♪

髪は切れば終わりではなく、誰かの役に立つかもしれない。
そう思えたことで、グレイヘアでいることにも、少しだけ前向きな理由ができました。

こうした気持ちの奥には、母の存在があります。

母を、がんで亡くしました。

抗がん剤治療に入る前まで、母はよく髪を染めていました。
白髪をそのままにしている人ではなかったと思います。

だからこそ、治療を始めると決まったとき、母がまず美容室に行ったことが、今でも忘れられません。

「どうせ抜けるんだから」ではなくて、
「その前に、飛び切りかわいくしてほしい」と言っていました。

少し短く、少し軽やかに切ってもらった髪。
鏡の前で笑っていた母の顔は、どこか晴れやかでした。

これから始まる治療の重さをわかっていたからこそ、
あの時間は母なりの区切りだったのだと思います。

治療が始まると、髪は少しずつ抜けていきました。

その様子を見るのはつらかったですが、
本人にとっては、もっと現実的で、もっと残酷な変化だったはずです。

私と兄で、「一緒に坊主頭にしようか」と話したことがあります。

同じ姿になれたら、少しは気持ちが楽になるのではないかと思ったのです。

でも、その提案はあっさり断られました。

「それはしなくていい」と、少し困ったように笑って。

今振り返ると、あれは遠慮ではなく、母なりの線引きだったのかもしれません。

同情でも、覚悟の共有でもなく、
自分の時間として、その状況を引き受けようとしていた。

最後まで、親の立場でいようとした強さだったのだと思います。

髪がない時間、母は帽子やウィッグ選びにもとても悩んでいました。

似合うかどうか。
暑くないか。
ずれないか。

そして何より、「自分らしくいられるかどうか」。

店に並んでいるウィッグは黒髪が多くて、どれも少し若すぎるように見えました。意外にグレイヘアのウイッグはすくない。
帽子も便利ではあるけれど、気持ちが追いつかない。

隠したい気持ちと、そのままでいたい気持ち。
その間で揺れているのが、そばにいても伝わってきました。

そして、治療を経て、また髪が生えてきたとき。

そこにあったのは、染めていない、まじりけのない白髪でした。

その白さが、本当に美しかったのです。

弱さの象徴でも、老いの象徴でもなく、
静かで、凛としていて、とても自然でした。

説明できる美しさではなく、
見る人の感性にそっと作用するような、そんな髪でした。

あの白髪を見てから、
私の中で何かが変わったのだと思います。

今、私がグレイヘアでいるのは、老いを諦めたからではありません。

あのとき母が悩んでいた姿と、
最後に見せてくれた「そのままの美しさ」が、
確かに私の感性に作用し、今も心の奥に残り続けているからです。

グレイヘアは、決して楽な選択ではありません。

少し目立って、少し不器用で、
ときどき迷いもあります。

それでも、この髪のままでいる時間を、
もうしばらく大切にしてみようと思っています。

白くなった髪は、
失ったもののあとに残るものであり、
生きてきた時間そのもの。

そう思えるようになった今、
このグレイヘアは、私にとって静かな支えのような存在。

今はロングで大女優みたいな髪型を目指してますが(笑)

ヘアドネーション後はさっぱりとショートにする予定。なので今を思う存分楽しんでいます✌